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東海篠先生之墓

指定日:昭和51年3月25日
所在地:浜田市真光町
所有者:観音寺

東海

 小篠東海(おざさとうかい)は、本名を敏(みぬ)といい、東海と号し大記(だいき)、道冲(どうちゅう)、御野(みぬ)、轡龍(ひりゅう)ともいう。享保13年(1728)遠江国(静岡県)浜松で松田玄統二男として生まれ、宝暦二年(1752)周防守家藩医小篠家を継ぎ、医学を修めた。また、松崎観海から古文学派の儒学を学び、特に易学に長じていた。さらに国学の造詣が深く、本居宣長(もとおりのりながの高弟として、宣長の著書の序文を書き、また、著書の中でも東海の名が数多く見える程信頼されていた。藩主康定に儒臣として仕え、寛政三年(1791)の藩校「長善館(ちょうぜんかん)」創設では主役を果たした。彼の学殖を慕うものは全国に及び、宣長・太平(おおひら)の門人に藩内出身29名がみえているのも東海の力であろう。享和元年(1801)浜田で没した。
 観音寺にあるこの墓の碑銘は、淀藩の大泉屈正の撰文で東海の来歴と業蹟を伝える貴重な資料である。
 なお、わが国初の整骨医書「正骨範(せいこつはん)」を著わし整形外科の基礎を築いた二宮彦可(にのみやげんか)は、東海の長男である。

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