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「浜田城」歴史の散歩道 その7~その13

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「浜田城」歴史の散歩道 その7

 前回(その6)は、二ノ門と出丸について案内してきましたが、今回はいよいよ本丸へと散策を進みながら、浜田城と海との関わりについてもふれてみたいと思います。
 
本丸
 本丸は、記録によれば「八百二十一坪半」(2715㎡)とあり、その周囲には高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、塀には狭間(さま)と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79箇所にあけて、鉄砲や弓矢で射かけられるようになっていました。本丸内の建物としては、本丸一ノ門の右横に接して六間長屋(ろっけんながや)と呼ばれる平屋建の櫓があり、本丸左奥には三重櫓(さんじゅうやぐら 天守)がありました。また、5坪程度の玉蔵(たまぐら)と呼ばれる鉄砲等の弾丸を収納する蔵もありました。
 
海と浜田城
 浜田城は平山城であるとともに海城(うみじろ)とも呼ばれており、海上から三重櫓等が望める形で築城されていました。1626年スペインの宣教師が船上から築城されてまもない浜田城を見て、「立派な城である」と報告していることからも、海上交通を重視した城であることが窺えます。また、廻船(かいせん)は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、浜田藩最大の湊である外ノ浦の湊で揚荷(移入品)、積荷(移出品)の上げ下ろしをしていました。揚荷の主なものは、米、塩、砂糖等で、積荷の主なものは、扱苧(こぎお)、半紙、焼物等の地元特産品でした。
 
 さて、次回の歴史の散歩道は、三重櫓(天守)についてふれてみたいと思います。
(文化振興課)

城下絵図
図版(1) 城下絵図

海岸絵図
   図版(2) 海岸絵図(左手下に浜田城、右上に松原湾へ入る廻船)

本丸から望む日本海と外ノ浦 現在
図版(3) 本丸から望む日本海と外ノ浦(現在)

「浜田城」歴史の散歩道 その8

 前回は、本丸や海との関わりについてふれてきましたが、今回はいよいよ三重櫓(天守)について案内してみたいと思います。
 
三重櫓(天守)
 浜田城の天守は、本丸の北西隅に突出させた出角(ですみ)と呼ばれる石垣上に設けられていました。規模は「上ノ重 五間四面、中ノ重 七間四面、下ノ重 東西九間 南北七間」で、高さは四丈六尺壹寸、鯱(しゃちほこ)の高さ四尺六寸で、約15mの高さの天守でした。1827年の記録では、浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると、「森の中に城少し見ゆる」とあり、この天守が見えていたと考えられます。ただし、その外観は二層(内3階)に描いた絵図と三層に描いた絵図とがあり、明らかではありません。天守は、「城=天守」ともいわれ、その存在は権力の象徴という役割を担っていました。
この浜田を舞台に1866年、第二次長州征伐(石州口の戦い)があり、大村益次郎率いる長州軍に幕府軍は敗れ、浜田藩は7月18日、自焼退城という運命をたどりました。天守がいつの時点で姿を消すかについては、自焼退城をした時であるという説がありましたが、近年、新たに発見された資料により、1866年7月23日、天守に保管されていた台帳等の資料を取りに行ったという事実が分かり、城内は焼けても、天守は焼けていなかったことが明らかになっています。
 
 さて、次回の歴史の散歩道は、庭園についてふれてみたいと思います。
(文化振興課)

浜田城縄張図でみる天守の位置
図版(4) 浜田城縄張図でみる天守の位置

絵図でみる三層の天守1
  図版(5) 絵図でみる三層の天守

絵図でみる二層の天守2
   図版(6) 絵図でみる二層の天守

「浜田城」歴史の散歩道 その9

 前回は、三重櫓(天守)についてふれてきましたが、今回は庭園について案内してみたいと思います。

庭園
 城山西側のふもとから浜田川に挟まれた位置に、「御茶屋」と呼ばれる庭園が設けられていました。この庭園は、大きな池を中心に、その周囲をゆったりと回遊して歩ける造園様式(回遊式庭園)を採用した大名庭園でした。この池の内には、大小2つの島があり、大きい島は「中ノ島」と呼ばれ、島の中には「島ノ御茶屋」があり、小さい島には、祠(ほこら)が建っていました。
 資料によれば、この庭園は、藩主の茶事、舟遊びだけでなく、家臣との儀式や対外的な交渉、接待をはじめ多様な場として活用されていたことがわかります。このように、当時の庭園は、単に庭を楽しむだけのものではなく、城としての防備や御殿等でのまつりごととは別のシステムとして、藩の政治・文化を支える重要な場であったことが窺えます。
 この庭園は、それ以後、掬翠池(きくすいいけ)と呼ばれて浜田市民に親しまれてきましたが、昭和41年の造成により池が埋め立てられ、その姿を消しています。
 
 さて、次回の歴史の散歩道は、御便殿について、ふれてみたいと思います。
(文化振興課)

現代の地図でみる茶屋と庭園と船蔵
   図版(7) 
   現代の地図でみる茶屋(13)、庭園(中ノ島・「島の御茶屋」)(14)、船蔵(15)

庭園写真
図版(8) 庭園写真 右手(中ノ島)昭和9年当時

  江戸時代の絵図でみる茶屋と庭園
    図版(9) 江戸時代の絵図でみる茶屋、庭園(一部加筆)

「浜田城」歴史の散歩道 その10
 
 前回は、庭園について触れててきましたが、今回から、4回にわたり御便殿(ごべんでん)について紹介してみたいと思います。
 
御便殿
 御便殿は、東宮殿下(後の大正天皇)が明治40年(1907)に山陰を行啓(ぎょうけい)された際、浜田の宿泊施設として建築されたものです。
 東宮殿下の宿泊後は、旧浜田藩主松平家の別荘として、また、昭和9年頃には公会堂と行啓記念館として活用されていました。その後、昭和23年に個人所有となり、昭和30年以降は宗教法人施設として活用されてきましたが、平成18年5月に浜田市が寄附を受け、約111m北西に曳き移転して、現在地(殿町城山ふもと浜田川沿い)に保存されました。
 
東宮殿下の行啓
 東宮殿下の山陰行啓は、島根県にとっては、10年以上にわたる悲願の達成であり、明治天皇の名代として、公式行啓という形で実施されました。
 行啓に先立ち、道筋の点検、補修や環境の整備、伝染病の予防対策や随行への対応等、地元住民にとっては一大事業となりました。
 東宮殿下は、明治40年5月31日に、浜田の御便殿に到着。その後、拝謁(はいえつ)、陪食(ばいしょく)が行われました。6月1日、2日には各学校や浜田城本丸跡、歩兵第21連隊等を視察され、市民による旗行列、提灯行列も行われました。そして、3日に御便殿を出発し、長浜沖に停泊する御召鑑(おめしかん)「鹿島」に乗船、宿泊され、4日、隠岐へ向かって浜田を出発されました。

さて、次回の歴史の散歩道は、御便殿の特色について触れてみたいと思います。
 (文化振興課)

正面から見た御便殿
     図版(10) 正面から見た御便殿

  行啓に随従された人々
   図版(11) 行啓に随従された人々(御便殿御車寄) 
         
     御召鑑 鹿島
      図版(12) 御召鑑「鹿島」

 
「浜田城」歴史の散歩道その11
 
 前回は、御便殿の概要について触れてきましたが、今回は御便殿の歴史について紹介してみたいと思います。
 
 御便殿の地は、慶応2年まで、庭園として用いられていましたが、明治23年、旧浜田藩主の松平家に払い下げられました。
 そして、明治39年、山陰行啓が正式に決定した後、東宮殿下の宿泊施設として、同年10月、松平家の依頼により、浜田営造株式会社が御便殿の建設に着工し、翌年の明治40年5月、竣工しました。建坪120余坪、建築費は1万7千円、松平家が所有する浜田城跡から伐採した用材を換算すれば約3千円、庭園築造費、室内の装飾設備を加えれば、総額3万円に上るといわれています。
この山陰行啓に伴い、宿泊施設に用いられたものとして、鳥取市の仁風閣や松江市の興雲閣などが知られていますが、当時刊行された『山陰道行啓録』では、浜田の御便殿を山陰両県で「随一の御旅館」として紹介しており、御便殿が高く評価されていることがわかります。
 その後、御便殿は、松平家の別荘として用いられ、明治40年には御便殿を一般公開しています。そして、浜田町が管理するようになると、行啓記念館や公会堂としても活用されました。
 なお、御便殿は、昭和23年には個人所有となり、昭和30年に宗教法人団体へ寄附され、修養道場となりました。
 御便殿は、百年あまりの年月の間、幾度かの改修工事を経ながら、平成18年まで活用されました。
 そして、平成18年5月、浜田市は宗教法人団体から御便殿とその移転先となる土地の寄附を受け、同年7月から11月にかけて曳き移転及び保存工事を行い、平成19年3月には、移転完了式を行いました。
 今後の御便殿については、浜田城跡と一体的に整備して、「浜田城資料館」として活用していく方向で、現在検討を進めています。

 さて、次回の歴史の散歩道は、御便殿建物の構造や造りについて触れてみたいと思います。
(文化振興課)

     濱田営造株式会社から贈られた感謝状
     図版(13)
     御便殿を建築した宮大工「門手氏」に濱田営造株式会社から贈られた感謝状

     建築中の御便殿
     図版(14) 建築中の御便殿


 
「浜田城」歴史の散歩道 その12
 
 前回は、御便殿の歴史について触れてきましたが、今回は御便殿建物の構造や造りについて紹介してみたいと思います。
 御便殿は、建物面積545㎡を有する大形の近代和風建築物で、大きな入母屋(いりもや)の屋根を持つ前館と後館、そして後館に附属する角屋(つのや)から構成され、「御殿」と呼んでも差し支えのない規模と構造をもっています。
 内部については、『山陰道行啓録』などによると次のように述べられています。
 前館は、御車寄(おくるまよせ)から玄関を上がると、真正面に幅二間に長さ五間の大きな畳廊下が設けられていたほか、東玄関に通じる幅一間の畳廊下や六畳と八畳の部屋が各2室ありました。
 後館には、十二畳の御次の間(おつぎのま)と、その隣に便殿(べんでん)または玉座(ぎょくざ)と呼ばれる八畳の部屋があります。便殿は床が周囲より一段高く、欄間には鳳凰(ほうおう)が透かし彫りされ、部屋の三面には御簾(みす)が付けられるなど、「御所」のような造りになっていました。このほか、八畳の御寝室や御食堂、十畳の物産陳列所(松の間)が設けられ、那賀、美濃、鹿足郡内の物産約60点が陳列されていました。
 また、角屋には六畳の御化粧室、御厠室、二間半に一間半の御浴室が設けられており、これらは、前館の大きな畳廊下や後館とともに、皇太子のための空間とするなどの特異な建物構造と部屋構成になっている点でも貴重です。
御便殿は、明治期の近代和風建築として、石見でも稀な大形の建築物であると同時に、この規模のものとしては最古級のものであり、石見の近代を代表する歴史的な建造物として位置づけられます。

 さて、次回の歴史の散歩道は、御便殿の活用について触れてみたいと思います。
(文化振興課)
 
    便殿(玉座)
図版(15) 便殿(玉座)

        御便殿復元平面図
        図版(16) 御便殿復元平面図

「浜田城」歴史の散歩道 その13
 
 前回は、御便殿建物の構造や造りについて触れてきましたが、今回は御便殿の活用について紹介してみたいと思います。

 平成18年5月、浜田市は、浜田城にゆかりのある建物「御便殿」の寄附を受け、この歴史的建造物の移転・保存事業に取り組んできました。
御便殿の建築にあたっては、旧浜田藩主であった松平家と深く関わるとともに、浜田城の庭園をそのまま御便殿の庭園として利用されてきた経緯や、曳き移転による御便殿の保存がその庭園内で行われることになったことも考えると、曳き移転後の御便殿の保存、活用は、浜田城跡と一体的に整備していくことが、最も有意義な方法ではないかと考えられています。
 そのため、浜田市では、将来の構想として、浜田城の環境整備を検討するなかで、御便殿を「浜田城資料館」として、浜田城や浜田藩の歴史をはじめとした浜田の歴史、御便殿の歴史や建築様式、そして建築された明治という時代を理解いただけるような施設として活用することを考えています。
 このような経過から、昨年4月、浜田城に関わる資料館及びその環境を整備することを目的として、民間組織である「浜田城資料館建設期成同盟会」が発足し、次のような啓発活動を実施しています。
  1、啓発チラシ配布によるPR活動の実施とともに、「御便殿」を浜田城資料館として保存、活用することを、市民の皆さんに理解を求めながら、資料館建設のための募金活動を進めています。
  2、啓発イベントの実施
 ・「発見!浜田城」ウォークラリーの実施
  平成19年11月4日(日) 参加者 161名
 ・館蔵写真展「浜田城山の四季」の開催(浜田郷土資料館主催)
   平成20年1月4日~3月20日 来館者 451名
 ・「発見!浜田城」写真コンテストの実施 現在作品募集中
また、市教委では、昨年9月に、御便殿を浜田城資料館として保存・活用するにあたり、望ましい資料館のあり方について検討することを目的とした「御便殿活用検討会議」を立ち上げました。これまで2回の会議を開催し検討を重ねてきたところですが、本年度秋をめざし、資料館の具体的な計画案をもとに、建設費等の取りまとめを行ない、今後の資料館建設に生かしていきたいと考えています。

 さて、次回の歴史の散歩道は、いよいよ「第2部、その1」の開始となり、浜田城をとりまく歴史資料について触れていきます。
 (文化振興課)
 

     御便殿敷地内の散策
     図版(17) 春、桜の下、御便殿敷地内を散策する皆さん

図版 資料名と出典
(1)、(3)~(4)、(6)及び(9)「浜田城下町絵図 」、(7)、(13)、(15)~(17)→教育委員会所蔵
(2)「自唐鐘浦至長浜浦海岸絵図」、(5)「浜田城図」、(14)→個人所蔵
(8)→浜田図書館所蔵
(10)~(12)→写真集「はまだ」

 

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