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シリーズ「島根あさひ社会復帰促進センター」その5 刑務所と地域との共生について(北海道における事例)

 小学校の社会科の教科書を見ると、「北海道の開拓は、北方警備と開墾のため組織された屯田兵によって開始された。」と記載されているものがありますが、実際には北海道の開拓は、始めは監獄開拓、すなわち囚人による開拓の方が重要な役割を果たしたのです。
  監獄開拓は屯田兵開拓や、移住民の入植による移住民開拓の先駆として、道のないところに道路を作り、家のないところに家を建てて殖民開拓の先達として働いたのです。
  当時の政府は、北海道に囚人を送り、その囚人たちの手で開拓の事業を行わせ、やがて更生したものはそのまま北海道に永住させる、という方策を考え、刑役と開拓とを結びつけて、囚人の処置と北海道開拓とを同時に解決するという、いわば一石二鳥の策を講じたのです。
  このようなことから、北海道の街は、寒村に刑務所(当時は集治監(しゅうちかん))が設置されたことから、発展したところが多くあります。


▲樺戸集治監庁舎

○樺戸集治監(かばとしゅうちかん)(月形刑務所)
明治14年9月3日 開庁
○月形村
明治14年7月1日 開村

 刑務所の開庁と村の開村がほぼ同時期であり、刑務所とともに街が発展していったことをうかがわせます。
  以来、囚人によって農地が拓かれるとともに、道路、橋梁、水路などが次々と設けられて、月形は集治監を中心として一歩一歩安住の地としての発展をとげてきたのです。
  歴代の典獄(てんごく)(所長)は今と違って、強大な権限を背景にしたワンマン政治を行いましたが、文化的施設にも意欲的で、大牧場経営の構想、水道の布設、村立病院の建設、銀行の創設、幼稚園とキリスト教会の創立、野球の導入、オルガンの設置など次々に文化的な施策が講じられています。
  しかしながら、月形村にとって育ての親である集治監も、時の流れとともに、その存在が問題となっていきます。多数の囚人の血と汗の苦闘によって開墾され、道路や灌漑溝(かんがいこう)に至るまで整備が進められましたが、周辺地の開発とともに来住(らいじゅう)した一般村民にとっては、それぞれの自立態勢が整っていくにしたがって、監獄という存在がやっかいなものに感じるようになったのです。大正の初めころから「監獄の存在は子女の教育にとって好ましくない」との理由から、ほかに移転してほしいとの請願が中央へ届けられるようになり、大正8年に、39年間にわたり月形とともに生き続けてきた樺戸監獄は廃監となりました。


▲「おはようトマト」(月形の特産品)
原料の一部を月形刑務所で栽培している。
  廃監後65年目で北海道行刑(ぎょうけい)のふるさと月形町に再び行刑の灯が点(とも)ったのは、昭和58年4月5日であり、日本で一番新しい月形刑務所が誕生したのです。
  月形刑務所は東京の中野刑務所の代替えとして建設されたものですが、当時は今と違い、刑務所早期移転、建設反対運動が全国いたるところで起きているなか、10年も前から町ぐるみによる誘致に力を入れ、運動されたと聞いています。
  現在、月形刑務所は地元の要望を受け、収容定員600人の施設から1、800人へと増築工事を実施しています。
月形町の話では、「刑務所誘致には町財政の経済的効果が大きく、企業誘致の観点からは町からの支出を伴わないため非常に安定した企業です。
  また、地域経済の活性化という面から見ると、町内購買力は増加したが、収容関連物資の調達については規格や価格の面で課題が多い。」ということです。
  しかし、一番大きなメリットは地域活動の活性化ではないでしょうか。刑務官の80%は転勤のない一般職員であり、そして「島根あさひ」についても旭町が故郷となります。また、刑務官の年齢層は様々であり、きっと色々な地域活動に溶け込んでいくことと大きな期待をしています。

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